冒頭の映像が公開されているので貼っておく。
黒沢清の映画はまずそのアングルに毎回痺れる。
小津直伝のようなドアや壁で区切られた空間を動く登場人物たちを引いた絵で捉えるショット。もうよだれが出てくる。キューブリックの一点消失の遠近法的構図と同じくらい好き。勿論小津の構図が元祖といえば元祖だが、もはや小津の新作は見れないわけで。
一言で言ってしまえば復讐劇である。殺された子供の復讐をするという話なのだが、その復讐が二重構造になっているところが面白い。黒沢清らしいヒネリの効いた構造だ。
そして特筆すべきは、その復讐心から生じる「悪意」が凄まじいのだ。
特に柴崎コウ、そもそも顔力の強い女優なのだが、この顔力を使って「悪意」をこれでもかっというくらいに観客にぶちまける。ポーカーフェイスのままでひたすら悪意の塊をぶつけてくるのだ。そもそも極端なアップがない、引いた画面が多いにもかかわらず、その顔力ががんがん迫ってくるのだから、そりゃすごい。彼女の怪演好演には心から拍手を送りたい。しかもほぼ全編フランス語。日本語シーンはないわけではないが数分間しかない。いやいや彼女の努力を想像すると本当に頭が下がる。
彼女の抑えに抑えた情動的な俳優としての身振りを、小津安二郎由来の黒沢清アングルと微妙な緊張感を孕みつつも物語(と言えるのかどうかも定かではないが)が進んでいく。
そして、最後の最後で悪意の連環が終わるかに見せかけて、悪意の連環はさらに続くということが暗示され、物語は唐突に終わる。悪意が浄化されることはない。それは永遠に続いていくかのように描写される。
これって何かに似ていると思ったら、パレスチナ問題、ウクライナ侵攻等々、世界中のありとあらゆるところで目にするものではないだろうか。そこにあるのは清き人間の心というよりも「悪意」「復讐心」の連鎖だ。
黒沢清はそこに終焉という名の救済を描くことはしない。
悪意の連環は終わるのか、それとも無限ループをしていくのか、その難問は観客の前にどかんと投げ出される。
ひとつだけなにかヒントがあるとすれば、唐突に現れ自殺してしまう西島秀俊の演じる日本企業の駐在員。彼はフランスに溶け込めずあっさりと死を選ぶ。彼は悪意を一新に自分の身に受けてその悪意を贖罪するかのように自ら死を選ぶ。その死で彼の周辺にあった悪意は多分消失してしまう。とはいうものの、悪意を消失させるために人の命が必要だという話だとしたら、それはあまりにも寂しい。とはいえ、命をもって悪意を止めるという暗示になっているのではないか。
勿論「悪意」を止める方法についての正解がなにかは私にも分からないが、この衝撃を受け止めるために、我々はこの映画を見たほうがいいのだろうと考えている。