BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 言語で語る

 ここしばらく、ずっと別役実の「ベケットと「いじめ」 (白水uブックス)」を読んでいる。
 ここでは人間が言語的世界の中でしか認識し得ない対象になってくるといったい何が起こるのか?ということが綿密に議論されており、その世界の中での足枷をいかにベケットが戦略的にすり抜けようとしていたかがひたすら議論されている。
 暴力的に単純化しつつ、私の理解の範囲内で言うならば、人間は言語という足枷の中でしか生きられない以上は、言語的存在になってしまうわけで、言語的存在である以上は、「言葉にならないもの」として存在することは不可能だということ、その厳しい現実にどう立ち向かうかということになる。しかし「言語にならないもの」がなければ、コミュニケーションはなかなか難しいものになってしまう。
 コミュニケーションのあり方として、現代人にとっては言語が主になってくると、「言語以外のものを伝えようとする」行動が盛んになってくる。会社で社内のコミュニケーション活性化のために、宴会をやってみるとか、まさにその最たるものであろう。
 しかし、最近では、新しいやり方が大っぴらに台頭し始めてきたように思う(昔からあるような気もするけど)。
 それは「言語によって言語以外のものを伝えようとする」やり方である。つまり、通常のコミュニケーション以外の情報を言語で伝えあうことによって、通常の言語的な範囲のコミュニケーションを活性化させようという企みである。
 ま、オチとしては貧相なんだが(笑)Blogで趣味だの日常生活だのが開陳されていると、どうもその人のことを深く知っているような気になる。私もここで比較的自己の生活をブツブツ書いているせいで、何をやっていて何に関心があるのかを「分かって頂ける」ような気がしていたりする。Blogだけでなく、SNSなんかもこの一連の流れだろう。それだけでなく、ここでも述べたように、コミュニティサイトやSNSで開陳させられる、自分が好きな「モノ」の一覧。そのガジェット的な世界は、まさに言語化されいると言えないか。
 多面的な人間存在を、BlogやSNSといった非人格的な電脳空間で行うことの不思議さは、いつでも私を単純に驚かせる。ここでも何度か考察しているが、考えているとキリがなく、かなり面白い。
 電脳空間こそ、言語のみによって支配された世界。その電脳空間で、言語によって言語以外のものを伝えようとする試みが今はお盛んなわけだ。言語と使って言語以外のものを伝えようとする野望は、人類が言語を使い始めて以来の壮大なもので、それはきっと叶えられることのないものなんだろう。

 語り得ぬものの前では沈黙するしかない……はずなんだが、我々は逆に饒舌に語ってしまう。

 豊かなんだが貧相なんだか、判断に困る。