BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 アサッテの人

アサッテの人

アサッテの人

 言わずと知れた芥川賞受賞作。妻が芥川賞を受賞する前にタイトルと装丁で購入していたのを譲受けて読み始めた。作品のスケールから言うと群像新人文学賞受賞作なので、まあ中篇といったところか。長編というのは短く、短編というのは長い。これを一冊で出すというのは、なかなか勇気がいったのではないか、なんて思う。もう一つくらい短編を入れたくならなかったんだろうか。
 この作品については二つの側面から考えるのがいいのだろう。ひとつは「小説の形式」について。もう一つは「アサッテの意味」について(「意味」という言葉を使うとあらぬ誤解を受けるかもしれないが、ここでは敢えて「意味」という言葉を使うようにしよう。
 前者について言えば、これはメタ小説とでも言うべき形態を持っている。要するに一本筋の通ったストーリーで最初から最後まで読ませる、という形態ではなく、ばらばらの断片を提示しました、というような格好で、ぶつ切りのスケッチのようなものが読者に不器用に並べられているだけの形式。作品の中では、こうすることによってしか、叔父の「アサッテ」ぶりを明確にすることができなかった、ということになっている。
 後者に言えば、叔父が発する「ポンパ」という言葉、またはそれに類する通常では意味不明の擬態語。この意味不明の言葉によって表現される「アサッテ」なる概念。
 はっきり言ってしまえば、この小説、大変申し訳ないが、新味はない。前者にしても、メタフィクションなるものが、ありとあらゆる方法論を試しており、本作品において何か新機軸が出てくるかというと、そういうわけではない。
 後者について言えば、まあ作品中でも言及されているが、ダダイストのナンセンス詩、アルトーなどの仕事、ベケットの仕事、等により、こちらの方でも別に新機軸が出てくるわけではない。またフーコーが「日常にゼブラ模様の亀裂が入るとき」みたいなことで表現しているような、ある種の日常のグロテスクさ、人が生きていく、人が人とコミュニケーションをとるグロテスクさ、みたいなものは別に今に始まった話ではない。この「アサッテ」の意味を探そうとしても、過去の文献の水脈にあたるだけで、そこには、私にとっての快感はあまりない。しいて言えば、ヒップホップを聴くときに、サンプリングしてある元ネタが分かるとちょっとうれしいかんじ、それは誰しも経験したことがあるかと思うのだが、その感じに近い。
 まあ、前者の形式の問題にしても、同じことだ。元ネタ知っているという快感、優越感。何か新しいものを見出せるかと言うと、多分そんなことは、ないのだ。
 となると、論理的に考えていくと、要するに、「組み合わせ」の魅力なのではないか、と思ったりする。要するに「形式」と「アサッテの意味」の組み合わせが面白かっただけなのではないかと思うのだ。大変申し訳ない話だが、それ以外には特に見るべきものはないと思う。
 よく言われる話だが、これだけ多くの言葉が語られているということは、人がその口の端に乗せていない物語などこの世には存在しないのではないかとさえ思える今日この頃、もはやこういう形式や意味において、過去の水脈を上手に辿る(引用する、換骨奪取する)ことによってしか、何かを伝えることができなくなってしまっているのだろう。この「アサッテの人」はまさに、そういう時代の「芥川賞」なんだ、と思った方がいいのかもしれない。
 ま、語りつくされたからこそ「ポンパ」なんだよね、と作者はニイヤニイヤ笑っている。というような気もするが、どうせこういうのをやるんだったら、もっとペダンティックに、かつ徹底的にスノッブにやった方がいいのではないかとも思う。むしろ、ストーリーという古典的な様式美の中で、その様式との緊張関係で筆を進めていくような小説を、私は待ってはいるのだが……。