どこかで言ったことかもしれないけれども、小学校1年から5年までずっと小児喘息の治療をしていた。おかげさまで今は完治しているのだが、治療の間はずっと月曜日午後に学校を早退して病院へ行き、アレルゲン(ハウスダストだった)に慣れるための皮下注射をしてもらうわけだ。早退はクラス全員の知るところであり、それをネタにいじめられたこともないわけではない。
そりゃそうだ。
小学生は残酷だから。
そういうこともあって、小学生の頃は体を動かすことがめっぽう嫌いだった。喘息にはいいなじゃないかということで、スイミングクラブにも小4のときに入ったものの、ビート板握ってのバタ足練習が嫌いですぐにやめてしまった。
子供同士の遊びでもサッカー野球と色々あって遊ぶには遊んだけれどもいい思い出はない。エラーでバカにされたり、キーパーとの1対1を平然と外したり。ちょっとこの辺はのび太っぽいかんじだ。
のび太と唯一違う所あるとすれば、幸か不幸か、学校の勉強がどういうわけかできたところくらいだろう笑
今は全然違うのだが、当時は本当に体を動かすことが苦痛だった。だから自分は部屋の中に逃げ込み、部屋の中だけに飽き足らず自分の頭の中に逃げ込んでいた。読書、いたずら書き、プラモデル、空想……そういうものだ。
頭の中では自分は本当に自由だった。好きなところに行けたし、好きな乗り物に乗れたし、ゴールを決めることもホームランを打つことも出来たし、ロボットを操って怪獣と戦うことだって出来た。
私はひたすら肉体という軛を逃れて、頭の中に逃げ込んだ。
ところがその後、小学5年生になって喘息が完治して中学生になって体力にある程度自信がついてからと言うもの、少しはマシになってきたが、スポーツ的な快感を味わえるようになったのはもっと随分と後のことだった。
そして今、運動ではないが、自分の体を依り代として表現をしていく、ヴァイオリンと能楽の双方を習っていて、やはり自分は自分の肉体を使うことが上手ではないということを日々認識をさせられているところだ。
肉体は可能性ではなく、呪縛のようだ。自分のイメージ通りに動かないからだ。これが思考や想像の中だけれであれば、人間はもっと自由ななはず、いやここは断定してしまっていいだろう。
思考や想像空想の中では人間は基本的にはもっとも自由なのだ、と強く言いたい。
もっとも、この自由については「マトリックス」の出現以降、その豊穣さは忘れ去られ、もっとチープなバーチャルリアリティなる言葉で代替されるようになってしまったのだが……。逆に言うと、そんなことを強調しなければいけないということ、肉体は呪縛だと言い切ってしまうということは、やはり自分は肉体を上手に使うことができない、よって肉体を好きになれないということなんだろうなあと思ったり。
自在に肉体を駆使できるようになるのはいつなのだろう?
そもそも自分の年令を考えるともう永久にそんな日はやって来ないのかもしれない。
いや、やって来ないに違いない泣