今日は14時から新国立劇場で「TIME」を見る予定にしている。
「TIME」の詳細についてはこちらのリンクを見てほしい。
亡き坂本龍一とダムタイプのコラボということで見ておいたほうがいいかなあと思っていそいそとやってきた。前にも書いたが、新国立劇場は家から近いのだ大好き。開演前に白ワインをきゅうっと一杯ひっかける。シェードの隙間から差し込む光がじりじりと肌を焼く感じで、そこだけ切り取ればもう十分に夏だった。
開演前から鈴のような音が流れている。幕はなく既に舞台は広がっている。症の音、中央に貼られた水盤の音、田中泯の動き、夏目漱石の夢十夜の朗読、見たこと聞いたことがない筈なのに既視感が漂う。これってなんだろう、と思っていたら、そう、「能楽」だ。拍があるんだかないんだか分からないロングトーンとゆっくりとした身体の動き、そしてゆっくりと響く言葉。既視感と言えば聞こえがよいが、これは能そのものだ。
そう思うと、なんとなくあーあという気分になってしまう。
自分としてはこの手の舞台というかインストレーションというか、その間というか、そういうものには、まだ自分が見たことのないものを見せてほしいという欲求で足を運ぶ事が多い。よって既視感のあるものを、いくら別フォーマットで見せられても、あまりぐっとは来ない。
とはいうものの、これって能楽に近いんだよと言って能楽を見に来てくれる人が一人でもいれば能楽マニアとしては嬉しい限りなんだが、どうなんだろう?
帰って来てから、録画してあった「美の壺」を見る。能面、装束、舞台等々、きらびやかな能の一品によだれを垂らしながら見る。素晴らしい面、唐織の装束、自分がそういうものを見に着けて舞う機会はないんだろうけど、見るだけでもため息が出る。贅の極みとはまさにこのことか。
その後外出中の妻から連絡あり、吉祥寺でご飯を食べようとのこと。急ぎ「トスカーナ」の予約をとり、おもむろに家を出る。水回り掃除は今週はサボってしまった。
まあそういう日もある。