BearLog PART2

暇な中年の独り言です

「美と殺戮のすべて」 搾取と搾取を正当化する寄付の拒絶という暫定的な結末から見えてくるもの

klockworx-v.com

 ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞をゲットしたドキュメンタリー。

 写真家ナン・ゴールディンがPAINというNPOを設立し、オピオイド薬禍を引き起こしたサックラー家と戦うという話と彼女自身の生い立ちという2つのストーリーがほぼ同時進行というか交互に語られていく。

 「エリン・ブロコビッチ」などでもそうなのだが、日本から見る限りすべてを網羅して知り得るというかんじではないものの、こういう巨悪的なものに対して草の根から湧き上がる反対運動によって、腐敗した人々が裁かれるということが起こっているように見える。

エリン・ブロコビッチ (映画) - Wikipedia

 日本でもないわけではないのだろうが、この手の自浄作用は日本よりもアメリカのほうが機能しているように見えてしまうのだ。日本の場合は「長いものにはまかれろ」という草の根的な考え方も強くあり、泣き寝入りしてしまうケースが多いのかもしれない。

 さはさりながら、このドキュメンタリーとにかく一見の価値がある。

 というのも、芸術に対するパトロンとして影響力を誇示しているサックラー家に対して完全に一矢報いたところがまず見もの。

 有名美術館や大学への寄付によって自分の名声のローンダリングを行うこと、これはある意味金儲けを手伝うことにもなる。よき人であることの名声は薬というものを販売する際には強力な免罪符になり得る。要するに金儲けを続けるという意味では「よきパトロン」という勲章は必要なものなのだ。もしそのような「勲章」への欲求が善意からでているものであったとしても、ナン・ゴールディンらの運動によって寄付の受取を完全に拒絶されてしまったわけで、これは特筆に値する。つまり、「寄付金」ではなく「社会正義」のようなものを美術館等々が選択したということであり、サックラー家においてみれば、自分が社会的に拒絶された経験は今までなかったはずなので、それなりの衝撃だったのではないかと推察する。

 金で買えないものもあるということ。そんな当たり前のことをドキュメンタリーとして提示されると本当に説得力がある。しかも今の日本では効率重視、利益重視の潮流の中で、大企業による不正が頻発しているわけで、「金」というか「経済性」だけが突っ走ってしまうことの弊害を我々はモロに目撃しているわけである。

 ということが、一見して本作の表層から読み取れることだ。

 しかしながら、このドキュメンタリーはそれだけではない。

 彼女の生い立ちが語られる中で自殺してしまった彼女の姉の話が繰り返し出てくる。母親との折り合いが悪く、施設に送られることを繰り返され、そして最後には自ら命を絶つ姉をナンは作中何度も語っている。それと同時にエイズ等で亡くなった友人のことも語る。

 特に自分の両親に対しては「彼らは親に向いていなかった。人間を育てるという決意もないままに家族を持つことを決断した(うろ覚え)」と、ナンは言っており、かなり辛辣だ。その一方で姉の過去の診断記録を紐解きながら、母が親戚からの性的虐待を受けながら育ったとも述べており、何かそのような負の力が円環運動のように繰り返されていることも彼女は十分に承知している。

 社会の周縁にいるさまざまな人々と接しながら、彼女は数々の喪失を経験していく。その喪失を引き受けるということが、彼女にとって作品を作り出す原動力になっているように思える。喪失という大きなネガディブなものを作品というポジティブなものに転換することなのだ。

 喪失は金銭的な価値では測れないかけがえのないものであるべき、だ。

 ひとりひとりが受け止め消化していくものだ。その過程で詩が生まれ音楽が生まれ絵画が生まれ、要するに芸術が生まれてくると言ってもいい。過剰なものから生まれる芸術もあるのだと思うが、自分の乏しい知見では喪失から生まれる芸術の方が多いような気がする。

 ところがオピオイド薬禍はまさに不意の喪失を何の必然性もなく撒き散らし、それが「金」「経済」へ転換されている。それこそ金銭で測定できはないはずのひとりひとりの人間の価値が金銭で評価されてしまったのと同様な効果を持つのではないか。

 しかも、その「金」はサックラー家に一方的に流れていってしまう。喪失(人々の死)が金銭として流れ込み、そこに莫大な富が生まれ、その富が芸術をパトロネージュする、メビウスの輪のような輪環。

 ナンは全部ではないものの、その一部を絶ったわけだ。

 命が金銭に変わること、これをマルクス主義的にいえば「搾取」ということになるのだろう。労働力を搾取するのも生命を搾取するもの要するに同じことだ。「搾取」に対する人間の自由意志の発露として「芸術」があると言うと言いすぎだろうか。そもそも「芸術」だって金目当てのものがあまたあるじゃないかという反論がすぐに聞こえてきそうである笑 まあそういう面もある。

 とはいうものの、喪失と経済的価値の接点に、社会の周縁にいたはずのナン・ゴールディンが位置していいたというのは、自分にとってはものすごく不思議な話に聞こえる。ただの偶然にしては出来すぎている。出会うはずがなかったものが出会ってしまったことからオピオイド薬禍は社会問題となり、そしてその「搾取」を正当化する「寄付」の拒絶という一旦の集結を見ることになったということじたいが、ドキュメンタリーとはいえフィクション的な不思議さを醸し出す。

 最後に出てくる被害者の証言をオンラインで視聴するサックラー家の面々。

 彼らの表情は、もちろん何の演出もないのだろうが、あまりに鉄面皮で逆に演出があったのではないかと思うほどだ。被害者の喪失を人間的な感情で受け止めているとは思えないところがなかなかすごい。

 ナン・ゴールディンとサックラー家の対峙、その必然というか偶然に、自分は瞠目する。

 人間社会というのはいかに不思議なものなのか。