BearLog PART2

暇な中年の独り言です

結局は「アナと雪の女王」を必要とする現代の不幸について

 私、娘につき合って、二度も観ました。最初は、英語のSing along版。次は英語の3D版。娘はこれに加えて、日本語吹替版も観ている訳で、他のご家庭がどうなっているのかは知らないけれど、つき合う大人としてはそれなりに大変だったわけである。
 しかし、今もって娘のアナ熱は醒めやらず、風呂場では大声で「れりごー」と歌うし、風呂場だけならまだいいが、電車の中でも往来でも暇さえあれば「れりごー」である。世間様では少しは「アナ熱」が醒めつつあるような気もする今日この頃、娘のハマり方に少々の危惧を覚えつつ、まあ仕方ないと思っていたりするわけである。
 しかし、これだけ「アナ雪」を観ると、多少は考える。何で、娘はこんなにも「アナ雪」にはまっているのだろうか。
 何で、娘は「れりごー」と飽きもせず歌っているのか……。
 何でだろう?と暇な父親は足りない頭で考える。結論らしい結論はまだ出ていないのだが、何となく「アナ雪」が照らし出す現代の構造みたいな?ものがうっすらとではあるが、見えてきたような気がしているので、ここに備忘録的にそれをまとめようと思っているのだった。
「アナ雪」がこれだけ浸透するという事は、現代人が、「アナ雪」を求めているということなのだと思う。ではなぜ、現代人が「アナ雪」を求めるのか。
 それは多分、みんなが氷の宮殿に閉じ篭るエルサになりたいからだ、とクマおたくは考える。
 エルサは、自ら望んだわけではないのに、身に付いてしまった特殊な能力により、通常の子供(要するにアナに象徴されるもの)や親の愛から隔離されて育ってしまった。良い子でいなさい、感情を包み隠して……。要するに、今現在の子供を「躾ける」行為が、象徴的にエルサの育つ環境に対応するわけだ。洋の東西を問わず、多かれ少なかれ「躾」は、子供に対して人間社会の一員として生きて行く上で必ず課せられるものだ。だから、「ありのままの」自分ではいられない。そう、成長すればするほど、大人になればなるほど。
 少なくとも、エルサはそうやって育ってきて、戴冠式を迎え、そこで自らを社会と切断して、山に引き蘢ってしまう。はっきり言って、エルサはこのまま一人自由に氷の宮殿で生きていれば幸せだった筈。しかし、結局のところ、自らが切り離した筈の社会に再び捕らえられてしまう。しかも、最も不幸な形で。しかも、しかも、自分の妹アナの存在を消し去ろうとしてしまう、そう、あくまでも意図せずして……。
 エルサ自らの能力(これを人間が本質的に持っている獣性や幼児性、本能と換言してしまってもいいだろう)を社会と共存させることは、多分、本質的には現代人にとって、非常に辛く悲しく厳しいことなのだ。しかし、社会と切断されては生きて行くこは、多分できない。個と社会の対立というか、緊張感をはらんだ包含関係というか、これって古くて新しい話ではあるが、こういう極めて現代人が抱える重苦しいテーマが、ディズニーアニメとして取り上げられ、そして「れりごー」の歌声とともに大ヒットしてしまう。
 これを現代の不幸と言わず、何と言えばいいのだろうwww

 別の見方をすれば、だ。
 アナをエスのメタファー、そしてエルサを超自我のメタファー、と言い換えてもいいかもしれない。二人はニコイチだw しかし、エルサ(超自我)は、エスと社会をバランスすることに耐えられず、事実上崩壊してしまう。そこに、逆説的だが、アナ(エス)が再び出て来て、「エルサ、一緒にいよう」と言う。そして、「エス」と「超自我」が「愛」という紐帯を通して、自我としての均衡を再び取り戻し、物語は大団円となる。「アナ雪」で描かれる「愛」は、それゆえ不明瞭で茫漠としているように、私には見えるけれど。
 だから、この大団円が「愛」という極めて不安定な紐帯の上に築かれていることに留意すべきだろう。結局、エルサ(超自我)が再び崩壊し、またまた山に引き蘢る可能性が消え去った訳ではないから。
 現代人は、「アナ雪」のエンディングにほっとしはするが、山に籠ったエルサの姿だけはくっきりと頭の中に残っていて、だからこそ、「れりごー」に共感している筈。
 なぜなら、現代に生きるということは、「ありのまま」ではいられないことを意味しているから。ありのままでいられないから、「ありのままで〜」と絶叫することによって、そのフラストレーションを解消しようとする……。
 繰り返すが、これを現代の不幸と言わずして何と言えばいいのだろう?
 ちょっと自分の子育ても考え直さなければならないかもしれない……。

 なんてねwww