昨日のエントリに追加。
ケインズは「長期的に見れば我々は皆死んでいる」といったわけであるが、もし人が死んでも『ミーム』のようなモノが残るのであれば、それは短期的な人の生き死にというものが、長期的な人間のありように影響を与えるわけで、つまり、ケインズ的な短期のマクロ政策が長期的な経済発展に影響を与えるという意味において、それは当たり前のことなんだか、何だか納得してしまった。
短期的であろうとなかろうと、死んでいようと生きていようと、何らかの形で、長期的な人間存在のありように多かれ少なかれ影響を与えてしまうということなんだろう。過去の蓄積が未来への指針を示すケースはなくはない。
過去の重荷やミームから得られるものは少なくない。
とはいえ、その重圧から逃れるだけの自由な想像力も必要なんだと思う。自由に飛び立ったつもりでいても、結局はお釈迦様の掌の上だったというオチがつくことを薄々気付きながらも、自由に飛び立つ気概を持ちたいものだ。
という意味において、「長期的に見れば我々は皆死んでいるが、『魂(=ミーム)』は残る」と言おう。
備忘録的な追加である。
だから、結局、誰が死のうとあんまり問題ではない。みんな死ぬわけだし。勿論自分が死んだとしても、それは大した問題にはなるまい。