BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 引き続き内省の時間

 自分が所属した組織で、馴染むことができたと自信を持って言える組織が一つもないのはいいことなのか悪いことなのか。学校でも銀行でも、ましてや自分自身が創業者の一角であった会社ですら、最終的には、自分がフィットしていると思えたことはなかった。
 人間は単独で生きていくことが不可能な生命体だから組織なるものに所属することによって、自らの生命を維持していくことは自明の事実では、ある。しかしながら、自分自身はつくづく組織向きの人間ではないなあと思うのだ。それはあくまでも私の皮膚感覚として、である。トマトが嫌いとかピーマンがキライとか、その程度のレベルの話であるとご理解頂きたい。
 組織にコミットしなければ得られないものはあるし、実際に過去粉骨砕身とは言えないが、組織にコミットしてやってきたつもりではある。
 しかしながら、そうやっている自分を冷ややかに「何やってんの? そこまでコミットして何を得ようとしているの?」と俯瞰しているもう一人の自分がいるのだ。
 これは多分、私に特有の現象ではなく、広く現代人一般に見られることだと思うのだが、組織に属することによる有形無形の拘束に対して、無意識のうちに精神の奥底の何かが反発しているのではないかと思う。だからこそ、俯瞰することによって、自分自身の精神的バランスをとろうとしているのだ。
 コミットする自分、俯瞰する自分という二項対立をさらに俯瞰する自分を捏造してみたところで、この関係はデフレスパイラルのようなもので、終着点はなく、行き着く先は十度の自己否定依存症になるだけだから、実りのない探索と言えよう。
 ここ最近、怒られた(先日のエントリ参照)ことによって、組織と自分の関係をもう一度考え直してみたのだが、組織と自分の間には多分、旬とでも言うものがあり、その旬を逃してしまえば、両者の関係は劣化していくばかりなのだ。「経営者はぼろぼろになってでも……」と言うのは正論で、社会的な責任を考えれば、それは正しいし、反論の余地はない。利害関係者からすれば、まさにそうだろうし、利害関係者へ与えた有形無形のご迷惑というものについては、それは自分が引き受けていかなければならないものだとは、思う。
 しかし。
 組織があろうとなかろうと物理的な自分自身は存在し続けるわけであり、それを否定し続けても、何か有効な打開策が見つかるとも思えない。組織に馴染めるかどうかは、あくまでも自分自身の「感覚」に素直にしていくしかないと思うのだ。「感覚」こそが、組織と自分の関係における「旬」を何よりも明確に捉えることができるだろうからだ。「感覚」を騙して続けたことで、よかったことはただの一度もないからだ。
 少なくとも、自分にとっては。