BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 KY

 何をいまさら、オヂサンが「KY」か、という話ではあるが、備忘録として書いておきたい。
 今の巷の「KY」という場合の「空気」の範囲について、である。この場合の「空気」というのは、極めて限定的な空間におけるものと考えられる。職場(せいぜい課単位)、仲間内、等々。
 別にその場における「空気」感をいくら読んでいただいても困らないのだが、その空間、あまりに狭くないか?と思うことが多い。この場合、空間というのは物理的な空間も含め、その空間に居合わせる人々との関係性も限定的だということを言っているのだ(つまり、友達だったり、職場の同僚だったり、要するに一言で言えば「閉じている」ということになる)。
 だから、逆に空間が限定されていない、別の言葉で言えば開いていたりすると、どんなに空気を読める人でも、オープンな空間(別の言葉で言えば公共的なスペース)での空気は、意図的なのかどうか知らないが、まったく「読めなく」なる傾向にあるような気がする。
 たとえば、満員電車の中。
 みんなで少しずつスペースを節約して、少しでも心地よくなろうとした方がいいと思うのだが、新聞広げて見たりとか、携帯でメールうったり、とか。君が新聞をたためば、もうちょっとみんな楽ができるよ、君の携帯が肩にあたって鬱陶しいんですが……。といった経験をされている方がけっこうたくさんいるのではないか?
 ま、満員電車で少しでもスペースを空けてみんなで楽をしよう、というのが、満員電車における「空気」でないとしたら、この限りではないのだが、それはあまりに利己的に過ぎないかと思ったりもする。だって、みんなでスペースを共有しているわけだし……。
 まあ、どちらにしろ、
・開かれた空間における「空気」の基準が違う
・開かれた空間において、その「空気」を読む気がない/読もうとしない
 という事象があるのはご同意頂けると思う。そのことを考えてみれば、「開いた」空間における身振りが、ある意味で利己的になってしまうという現実にもご同意いただけるだろう。
 その現実からは、「閉じたコミュニケーションは大事にするが、開いたコミュニケーションはどうでもいいと思っている」という仮説を抽出できるような気がする。ま、あくまでも仮説ではあるが。
 ま、だからどうしろということもない。
 満員電車に乗らなくてすむような仕事につくのが一番、KYだ何だとカテゴライズされなくてすむような立場になるのが一番、まあ、そういうことなのだと思うけど。