- 作者: 倉橋由美子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1998/07/29
- メディア: 文庫
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あちこちで公言しているけど、私は故倉橋由美子の小説が大好きである。「聖少女」にいたっては、毎回ぼろぼろになるまで読んでしまい、多分文庫本ではあるが、三回は買い直しているくらいだ。その他の作品もほとんどを偏愛しているのだが。
これは実はお恥ずかしながら、読んでいなかった。ということで、今更ながらということで隙間時間を使って読んでいた訳である。
本書は、まさに古今東西の童話を換骨奪胎したもので、それぞれが掌編なので、まさに大人が隙間時間に読むにふさわしいものとなっている。隙間時間に読むのがふさわしいといっても、その内容は隙間時間にはそぐわないくらい、黒い笑いと皮肉に満ちあふれている。電車の中で口の端を引きつらせて、にやにやと笑ってしまうような類いの掌編がぎっちりというかんじなのである。
また、私が購入したこの新潮文庫版の解説を島田雅彦氏が執筆しているのだ。この解説がまたなかなかいいのである。特に、こんなところ。泣ける。私が好きな部分があるので、ちょっと長いが引用してみよう。
子どもはそうやって全身で、一瞬ごとに変化する世界に感応している。子どもの動作や言動が支離滅裂なのは、子どもが身の回りの世界と一体になろうとしているせいだ。論理も首尾一貫性も要らない子どもたちにとって、世界は未だめくるめく興奮に満ちている。しかし、その興奮を語ったり、論じたることはできない。
大人は、子どものように即物的に世界に感応する代わりに、世界観を持つ。世界を抽象化する論理や関係を見出そうとする。その方法の違いのことを人は個性と呼ぶ。世界を抽象化できない子どもには、大した個性はないのである。それは子どもの自我が未熟というのと同じだ。
しかし、自我の目覚めとともに、世界との戦いが始まる。自分はこうありたいという願望と自分を取り囲む外部の現実は不幸にもそっぽを向き合い、どうやら自分は世界に必要とされていないと思い悩む。その時から、私たちは世界に妥協し、折り合いを求めてゆく。少しでも世界が自分にとって居心地がよくなるように、様々な悪知恵を働かせるようになる。
何を当たり前のことを、というむきもあろう。しかし、考えてみて欲しい。世界を全身全霊で味わうということを忘れた我々には何が残っているのだろう?
そう。
悪知恵なのだ、所詮は。世界と折り合いをつけていくための悪知恵なのだ。
そう。
童の心を忘れていくわけだ、所詮は。
だからこそ、童話は近代的自我とは無縁のものとして成立してきた。その無邪気さは意味を求める現代人を笑いのめし、子どもの頃の驚きに満ちた世界を取り戻してくれる。
童話が童話たり得ている最大の要因は、心理描写等々をそぎ落とした、キャラクターの行為のみで進んでいくというところだろう。
どこかで言ったことの再現なのだが、行為じたいにリアリティを持たせるためには、何らかのロジックが必要になるから、そのロジックが何か、ということになる。
童話フォーマットにのっとって、純粋な万人がよく知っているキャラクターを、これ以上ない意地悪なロジック(決して残酷ではない。これは明らかに「皮肉」でしかない)で、激しく動かした結果に出てくる、愛すべき小品たち。それがこの「残酷童話」なのである。
この「残酷童話」は、童話というフォーマットの中で、最大限に皮肉なロジックを押し込めた(考えてみれば、皮肉ということじたいがひとつのロジックだと言うこともできるだろう)ということなのだ。これが面白く無い訳はない。
皮肉の果てに出てくる常識的帰結。これが結果的に「残酷」と言わずにいられない何かなのだろう。
私のようなひねくれ者にとっての最大の「癒やし」はこういうところにあったりするわけだ。