バレンタインデーというとガンダムSEEDの世界観構成上非常に重要な出来事である「血のバレンタイン」を思い出す。C.E.70年2月14日、ユニウスセブンへの核攻撃のあった日であるが、少なくとも自分の周辺ではそういう大変そうなことは起こっていない。
昨日の楽しい宴席の影響で睡眠時間が6時間を切っている。多分そのせいで何をやっても集中力が続かない。本当に睡眠時間は大事だと思う。
ということで、割り切って映画サービスデイであることから、前から観たいなあと思っていた「哀れなるものたち(Poor things)」を吉祥寺オデオンに見に行くことに。
なんかティーザー含めてたくさん動画が上がっているからまとめて張っておく。
色々と思うことはあるのだが、エマ・ストーンの怪演というか好演というか、それなくしては成立しない映画だ。しかも男性側から覗き見たようなセクシュアリティではなく、女性の側から自律的に求めていくセクシュアリティが物語を駆動する大きな力になっている点が極めて興味深い。
大抵の作品では、AVに見られるような男性側の視線に立脚したセクシュアリティが描かれることが多いが、これは女性の側から見たセクシュアリティが描かれているような気がする。いや正確に言うと、女性の側から覗いたセクシュアリティというよりは、少なくとも、
「男性が求めるようなセクシュアリティを拒絶する」セクシュアリティ
とでも言うべきか。よって死体や内臓のモチーフ、主人公ベラが行う自慰や性交については男性側のオーガズムやカタルシスを拒絶するようなさわやかさがあり、そのそのさわやかさがある種のグロテスクさを醸し出すというところがこの映画の最大の魅力のような気がする。
表層的な部分をなぞれば、人造人間が世界を再発見し自我を再構築していく話ではあるのだが、その再構築の過程で人間を人間たらしめているものは何なのかということがひたすら問われ、その問いは何度も何度も反復される。その反復はある意味しつこいところがあるが、それはそれでよいのだろう。個人的にはいらないエピソードもあるような気がするので、1時間半くらいにまとめてほしかったような気もするが、その冗長さ故にグロテスクが際立ち、男性中心原理がそのグロテスクさ故に燻しだされ、ユーモアの香りを纏う。その過程のためには冗長さもやむなし、と考えるべきか。
感動を生む映画ではなく、四六時中男性である自分に対して「自分は何者か」ということを問わしめ、考えさせ、悩ませる映画、とでもいうべきか。
だから「面白い」映画ではない。まさに文字通りの「問題作」なのだ。我々に投げかけられた問題として存在する興味深い映画と言えよう。
ということで帰ってきてから、バレンタインのプレゼントでもらったビールを飲む。このプレゼントが自宅に届いたときのことはこちらの日にまとめてある。
ちなみにビールについては婦人画報で売っているやつだ。リンクはっとく。
チョコビア。おいしい。ということでご機嫌に就寝。