BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 切断

#これは私的なメモなんで誰も分からないと思いますので、読み飛ばして下さい(笑)

 物や事象が、それぞれおかれているコンテクストから「切断」されるたとき、物や事象はどのように認識されるのか? 例えば隈研吾が「負ける建築」で「建築の切断」について語っている。建築は、環境というコンテクストから切断されて20世紀に肥大化してきた。その「切断された建築」にケインズ経済学がのり、さらに不気味に肥大化し、今やその肥大化ぶりが突出し、万人から反感をもって受け止められるようになっているのだ、と。
 私は建築については当然門外漢なのだが、「切断」という意味については自分の拙い体験の中から何となくその意味と重要性を類推できる。
 例えば株式会社。
 株主による所有というコンテキスト、従業員の生命維持装置としてのコンテクスト、地域経済というコンテキスト、他にも書ききれないほど沢山あるのだが……それらのコンテクストすべての結束点として株式会社が存在する。その中の一つのコンテキストだけにフォーカスをあて、他のコンテクストから切断することによって、「株式会社」という意味は大きく変貌していく。

 マルクスが主張していた「物象化」というものについても、「恣意的なコンテクストの切断」ということとして、とらえなおすことができるかもしれない。