BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 新たな大きな物語

 いつだかのエントリで書いたのだが、リオタールの言説による、「大きな物語」がなくなってしまったという認識について、ここしばらく色々と考えている。
 今までの社会科学という枠組みではない、新しい擬似的な大きな物語として、「科学技術」というものがある。これはよく知られた話で、純粋無垢の進歩礼賛は、ほとんど悪に等しい行為だということもある意味常識だろう。
 とはいえ、私は、かなり重度の科学技術礼賛派であることを認めざるを得ない。
 というのは、科学技術は、それ自身が一つの「大きな物語」と言えなくもないかもしれないが、科学技術は自ら自己否定していくという、ある種の「創造的進化」(まあ誤解を恐れずに言うとね)を宿命付けられているがゆえに、凡百の大きな物語よりもマシであるような気がするのだ。
 科学技術は自己否定によって進化し変化していくことになるから、大きな物語としては、それ自身が絶対化するというよりも、その自己否定によって螺旋状に事実を積み上げていくというそのプロセス自体が内包されている点において、宗教や国家や社会科学よりもずっとましなような気がする。
 科学は、人々の認識の果てを示す。人文科学は、結局の処、国家や企業などに利用され、詰まるところは「市場」なるものに収斂していく、決まり切ったお約束でしかないような気がしている。
 とはいえ、こう語ることが、私自身にとっての精神安定剤の機能しか持っていない……こと、それは重々承知で言っている。