BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 化学反応に収斂させよう

 人間の脳内の出来事はすべては化学反応なわけで、この化学反応をダイレクトに刺激すれば、人間という有機体は、「個」なるつまらない概念を超えて、ひとつの「種」としての共存を模索できるのではないかと、ふと思った。
 エゴだ何だというのだが、すべては化学反応、もしくは物理的な現象として記述できるわけであり、そこに拘泥するからおかしくなる。人間は言語という不確実なコミュニケーション・ツールをベースに活動をしているから、それ以上の存在にはなり得ない。どんなに素晴らしいシステムだって、言語の範囲を超えることはできない。言語がある種の論理体系だとすれば、そこではかならずゲーデル的な矛盾があり、その矛盾を乗り越えるためには、何らかの「リープ」が必要になる。
 ところが、化学反応だととらえてみれば、つまりは何らかの作用に対する反作用、というきわめて単純な関数のような関係で、化学式、もしくは数式で、人間のふるまいをすべて認識することはできないものか。化学式や数式も言語的能力の分派であるとするならば、まあそれはドープなものにしかならないとは思うが、音の羅列、光の羅列、匂いや触感で、脳内の物質を完全にコントロールすることができたら? 見ると悲しくなる光の点滅とか。聴くと元気が出る音とか。
 人は、具象的なもの(言語、音階、現実の模写)によって、間接的に脳内の物質を出したり止めたりしているようにしか見えない。
 小説を読んで感動して泣くのも、ある種のノイズを聴いて泣くのも、行為としては大差ないはずだ。私は後者にこそ、面白みがあると思っていたりする。