BearLog PART2

暇な中年の独り言です

5月26日 自分はどれかな、などとつまらぬことを考えながら

 朝どうも疲れが抜けないので(昨日あんなに寝たのに)、トレーニングはお休み。中間テストが間近に迫ってきている娘のお付き合いをすることに。

 午前中まずは三角関数につきあうが、やはり三角関数のコンセプトを理解するのが難しいようだ。そりゃそうだ。確かに面倒くさいしわかりにくい。で、そこそこに切り上げて英語。英語については現在完了形。基本的な概念からしっかり復習。しかし基礎的な単語や活用が分かっていないのはちょっと痛いなあ。

 ということで、娘の勉強におつきあいしつつ、合間に先輩から教えてもらった下記の本をちらちらと読み、読了。久しぶりの電子書籍

 

 それなりに面白く読めた。そもそも自分はギバー、テイカー、マッチャーのどれなのかということだが、たぶんギバーとマッチャーのハイブリッドのような気がする。というのも、自分が心を許した小さなコミュニティについてはギバーとして振る舞えるが、そうではないコミュニティにおいては、相手の出方次第でこちらからギブするわけでも、クレクレタコラするわけでもない。そもそも権力欲とか出世欲とか、そういうものはあまりない。金銭欲については残りの人生を心安く過ごせるくらいの蓄えはほしいけど、別に自家用ジェットに乗りたいとか、そういう野望もないし。他人を蹴落とすことなんぞについては最初から興味ないし。

 そもそも他人他人に対しての興味が薄いのかも知れない。

 とはいいつつ、本書の中に参考になることは色々とあったし、身の回りで自分が気を許していない人々をこれにあてはめて分析すると結構面白い。まあピュアにこの3タイプにぴったり当てはまる人というのは日本では少なくて、多分みんななにがしかのハイブリッド型担っているような気がする。

 とはいえ、最近割と影響を受けた宇野重規先生なんかが「実験の民主主義」で言っている「意思決定の民主主義」「行使の民主主義」に引き直して考えると、結局ギバーという存在は意思決定と行使が分離せずなし崩しに一緒になっているという部分があるような気がした。結局、自分の手を動かすわけだから。

 それ以外にマッチャーはテイカーは自分の工数にうるさいから、意思決定をしたうえで他人がそれをやってくれることに殊の外喜びを感じるような気がしないでもない。そもそも民主主義じたいが一定数のギバーがいることを前提に設計されているような気もしてきた。そうであるにもかかわらず、政治の舞台に上がってくる人はマッチャーやテイカーが多いから、なんだか訳がわからなくなっているのだろうなという気もするし、安易に人を信じることの危険性は本書でも指摘されていることであって、囚人のジレンマでも語られることではあるが、どうして人は人の善意を信じて正直やれないのかなあというところは謎。そもそもこの3つのタイプが人類史上でなぜ発生し進化してきたのかということにも興味をそそられる。そうか、人類の進化の過程で考えれば、この3つのタイプが互いに拮抗してバランスをとるから、Societyが成り立つと考えればよいのか。などとこの本で提起されていることから離れてちょっと色々考えてしまった。

 でもとどのつまり、自分は前にも述べたが、ギバーとマッチャーのハイブリッドで、心を許した人以外についてはマッチャーになる。しかしだな。自分をさらに観察してみると、自分が心を許した人以外は実は自分のスコープから外れていて、どうでもいい存在(道端の石ころ)になっているのではないか、という話もある。そもそも自分にとって存在しないのだ。

 それって、いいことなのか、悪いことなのか、ちょっと悩む。

 そうそう、この本、面白い。今読んでいるが。「実験の民主主義」と網野史学との補助線にもなっているし。宮本常一読んでみないと。

 

 さすが若林さん。