BearLog PART2

暇な中年の独り言です

 役立たず

 昨日今日とレースが終わってしまったこともあり、そもそも夏が終わると勝手に思っている節もあり、ふぬけな状態が続いていたりする(苦笑) 本当にふぬけである。
 今晩は、友人とこちらにお邪魔した。仕事場から近いのがうれしいところ。本当のところは明日行こうかと行っていたのであるが、急遽今日になったのである。
 友人とは、何だか分からないが、色々なことを話した。そもそもは「何かやろうよ」ということで作戦会議と銘打って酒場に参集したわけで、まあその手の話を色々としたわけである。話自体はまとまるものではなかったのだが、いくつか示唆に富む会話のひっかかりがあってとても良かった。

 ここしばらくずっと考えていることなのだが、人間の幸せというのは何なんか?という極めて基本的な問題がある。ここ最近、保険のことを考えたり、仕事をしている最中に、「自分の幸せっていったい何なのだろう?」ということをよく考える。他の人から見れば、私はそこそこ面白い人生を送っているように見えるかもしれない。ところが、当の本人からしてみたら、面白くも何ともなくて、退屈しているところもある。悩みが多いから退屈しないという考えもあるのだが、どうだろう、禅問答になってしまうかもしれないが、「悩みが多いという状況に退屈してしまっている」というかんじだろうか。そりゃあ悩みは解決されるべきものとして、仕事だろうとプライベートだろうと眼前にた〜くさん横たわっているわけで、無視して悩みくんを跨いで通り過ぎるわけにもいかん。

 とにかく色々な意味で退屈しているのだ。少なくとも退屈な状態というのは幸せということとは違うだろうと思う。誤解のないように言うが、「退屈」は「暇」とは違う。「暇」というのは物理的に何もすることのない状態を言うわけで、私にとっては「暇」はかなり最高の状態を示す。「退屈」というのは、反復される動作、しかも反復しなければならないという強制力を持っている物、を繰り返すのが嫌になっている状態を言う。
 友人と話していて思ったのだが、何かを生み出そうとして効率化だの何だのを考えていると、その目的自体が一つの制約条件になる。目的を持っている事自体、その目的の範囲から一歩も出れないことを意味する。
 それに対抗するには、究極の「無目的」「無意味」といったことを対置していくしかないだろうということが、おぼろげながら分かってきた。目的というものはあくまでも相対的なものであって、そこに辿り着いたからどうこういうようなものでもない。
 例えば資本主義社会の中で生き残ろうとすると、結局は資本主義の枠内を出れないわけで、生き残るという目的を否定するわけでもなく(否定すると逆におかしくなるような気がする)、その目的自体が大したことないんだと、そもそも目的を持つこと自体がまったくもって大したことないと言い続けること。これが大事な気がしてきた。「大したことない」という感覚が大事なんである、きっと。

 何ができるか分からないけど、そんなことを考えた作戦会議であった。